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英雄たちが愛した歴史的スパイクVOL.20 『隠れた名品アシックス(オニツカ)ボンバー編』

昔の日本サッカー界でギア的な面で海外と大きく違うことの一つは、やはり国内はアシックスのスパイクを履く選手が多かったことが挙げられます。JSLチームでも古河、フジタの多くの選手のスパイクはアシックスでした。

Icon 29634314 1815368455432881 1085668874 o 小西博昭 | 2018/08/27
(スパイクブログ始めました。https://maradonaboots.com/サッカー不毛の80年代の日本でも、トヨタカップ、天皇杯(元旦の決勝)、高校選手権は人気があり、冬の風物詩でした。 特に高校選手権決勝は国立競技場が超満員でしたが、JSLチームの対戦は、天皇杯決勝以外は黄金カード(読売クラブVS日産)のリーグ開幕戦でも寂しい観客数でした。 

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図1 国立競技場での高校サッカー選手権決勝(昭和58年度)とJSL黄金カード(1986年JSL開幕試合)。スタンドにご注目下さい。   

80年代前半の高校サッカー界で、人気・実力とも高かった清水東高校には西ドイツ製プーマスパイク(2万円超)愛用者が多数おられました。 


ところが、83年当時のキャプテン長谷川選手はアシックスのボンバー66(5千円以下、後述)をご愛用でした。 また、前回ご紹介した、練習でスーパーカップ(2.5万円)を履いていた望月達也選手も試合ではボンバーを使うことがありました。

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図2 長谷川健太選手(左)、望月達也選手(右)   


さらに、清水東出身の武田選手は読売クラブ加入後に、反町選手は大学時代にボンバーを履いていました。 もちろん、ボンバー愛用者は清水東の方々ばかりでなく、日本代表の都並選手も81年に神と対戦した時はボンバーを使っていました。

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図3 武田選手(左)、反町選手(右上)、都並選手(右下)。審判のスパイクの方が高級そうです。  
 

80年代のアシックスサッカースパイクは、シャペ(取替え式)、インジェクター(固定式)シリーズなど様々な種類があり、トップモデルは2万円以上しました。 ボンバー(おそらく固定式のみ)はどちらかといえば少年用の廉価版で、こちらも種類はたくさんありましたが、ボンバー55、66あたりが人気があったようです。 

アシックスについては全くの門外漢ですが、最近(ネタとして)入手したボンバー66、45、77が図4になります。

昨今のスパイクは非常に軽量で、いろいろな部分を極力そぎ落としたようなモデルが多いですが、ボンバーシリーズはある意味時代を先取りしていたのかもしれません。
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図4 左上はボンバー66。つま先のみクラリーノ(昔からランドセルの素材として利用されていました)で、かかとは布です。さすがに30年以上経つと、クラリーノは劣化してひび割れしています。右上はおそらくボンバーの祖先の45で、右下は66より少し上位モデルの77。77はつま先とかかとがクラリーノです。


45はほぼ布製ですが、つま先はぜいたくにも裏革が用いられ、現在もきれいです。ボンバーはゴム製ソールですが、ウレタンよりも劣化に強く、現在もしっかりしています。 

アディダス、プーマにもケルン(左下、76年頃のモデル)やトリノなど、ボンバーに似たコンセプトのモデルがあった気がしますが、ボンバーだけは高校・大学生にも人気が高かったと思います。  
 

ボールを蹴ると痛そうな華奢なボンバーですが、上手い選手はスパイクの価格など関係なく、自分の足に合えばよいということで、多くのハイレベル選手が若い頃にお使いだったと思います。 

ボンバーの使用に関して、エスパルス、フロンターレで活躍された向島氏が、学生当時の貴重なエピソードを書かれています。(http://www.frontale.co.jp/f_spot/obs_column/tatsuru/2004-06.html)。 

大学ではボンバーは使用禁止と言われたそうですが、巻頭の写真は関東大学リーグの当時の黄金カード(筑波大VS順天堂大)です。 大学トップレベルの試合でも、向島選手や反町選手同様、ボンバー使用選手が多くおられたようです。

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図5 向島選手は小柄でしたが、静学仕込みのテクニックと持ち前のスピードを生かしたFWとして活躍されました。


しかし、1985、6年ぐらいからトップレベル選手でボンバー使用者がめっきり減ったような覚えがあり、改めて調べてみると、皆さんこぞって当時デビューしたパラメヒコに変更されたようです(図6、7)。 

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図6 左は長谷川選手(90年頃)、写真は日本代表の試合ですが、アディダス使用者が多い日産でもパラメヒコだったと思います。

中央は欧州からヤマハに復帰された望月選手(86年頃)。右は向島選手(東芝)と三浦泰年選手(読売)の静学同期対決(91年頃)。どちらもスパイクはパラメヒコのようです。 

Thumb efbc98 図7 左から武田選手(90年頃)、都並選手(86年頃)、反町選手(88年頃)。   

現在の大学サッカー界は、地方大学でも元プロ選手が監督をされ、サッカー強豪高やJリーグユース出身の選手が多数所属する大学もあり、地域によらず実力伯仲のようです。 


80年代の大学サッカー界は、当時の高校のスター選手がこぞって関東の強豪大学へ進学しました。また、ユース代表クラスでも、サッカーの実力だけでは入学できない時代で、意中の大学に行くために浪人して再受験される方も結構おられました。それも早稲田や慶応など、関東の大学が多かったと思います。

しかし、83~85年は関西の大学の方が強く、インカレの決勝が関西勢同士の時もありました。それはさておき関西の大学チームは関東に比べてスパイクが個性的でした(図8左)。 

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図8 左は85年インカレ決勝(大商大(黒白)VS大体大)。
ゼブラ柄の大商大・望月聡選手は後にレッズなどで活躍され、なでしこジャパンが世界一になった時のコーチをされていました。

大商大(ほぼ選手全員)はユニフォームの柄に合わせた色のアシックススパイクを履かれていました。 

大体大も全員ではないですが、その後ガンバで活躍された島田選手(3番、間違っていたらご容赦ください)、GK武田亘弘選手(1番)は、かなり派手なペラーダスターを履いていました(http://king-gear.com/articles/138)。 


武田選手は卒業後ホンダで活躍され、読売クラブとの対戦では「たけだのぶひろ」対決がありました(右)。

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年には読売の武田修宏選手はプーマからミズノに替えられたようです。
  

さて、(今回は学生時代のスパイク話題ということで)最後はスパイクとは関係ないのですが、最近若い方たちとサッカーの練習をしていた時に聞かれました。

「昔は途中で水飲めなかったんですか?」


確かに昭和の時代に練習中に水を飲むと怒られました(多分どの競技も)。試合中もピッチ周辺に給水ボトルは並んでいませんでした。 日本の悪しき伝統と思っていたのですが、ワールドカップですらそうだったようです。 

82年スペイン大会では、ケガ人治療中ぐらいは飲めたようですが(図9中央は当時のイングランド代表)、ある試合の記事には左のようなことも書かれています。 

86年メキシコ大会(中米かつ高地)は甲子園のかち割みたいな感じで、試合中に水分補給をする選手がいたので(右)、だんだん寛容になったのだと思われます。  

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図9 左の記事の試合は北アイルランドVSオーストリア戦で、アトレチコの本拠地だったビセンテ・カルデロンで行われました(82年7月1日)。

昨年で閉鎖されたそうですが(http://king-gear.com/articles/540)、そのスタジアムで大活躍された英雄が現在日本でプレーされています。きっと日本の暑さも気にならないでしょう。   

さて、次回はボンバーとは真逆のコスパの良くないモデルをご紹介したいと思います。   

(写真は当時のサッカーマガジン、イレブン、ナンバー、ゴール及びゲッティイメージズなどより引用)  
 


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